昭和56年8月28日 朝の御理解 【 末永信太郎 】
第5節 これまで、神がものを言うて聞かせることはあるまい。どこへ参っても、片便で 願い捨てであろうが。それでも、一心を立てればわが心に神がござるから、おか げになるのじゃ。生きた神を信心せよ。天も地も昔から死んだことなし。此方が 祈るところは、天地金乃神と一心なり。
教祖様の御時代には参拝して来る氏子一人ひとりに、お伝えがあった。場合は御理解、場合は御祭殿?であった。どこへ参っても、こう願い捨てであった信心とは、仏様、神様にお願いをする事だという風にすら思うておった時代です。帰りに、言うなら御返事を頂いて帰れれる。ね。帰りに神様のお言葉を頂いて帰られる。という事はどういう事だろうか。この方の道は、話を聞いて助かる道と仰せられるから、結局、話を聞いて帰るのである。
その話そのものが、天地金乃神様からの直伝であった。または、教祖様の頂かれる御教えを行じられての、御自身の御体験であった。それが、御理解ともなり、神戒神訓とも、まあ、いわばなった訳でございます。ですから、教えそのものが神様のおご苦労であり、私ども氏子にかけられる神様の思いなのです。ね。
最後に仰っておられますように、この方が祈るところ天地金乃神と一心なり。そこから生まれて来る教えであり、そこから生まれて来る一人ひとりの、まあ、お伝えでもあったという。だから、いかに神様のお言葉じゃと言うて、聞いて帰っただけではおかげにならんのです。ね。なるほどだと合点が行き、ね、それを実験、合楽の言葉で言うと実験実証して行くという事がいるのです。
私はそういう意味においてです。ね、合楽の場合は、もう、それこそ、またとない神様のお伝えを皆さんは日々聞いておられると思うです。ね。教祖様の御教えが、ね、段々、なら直に直接頂く事は出けなくなって、言うならば言い残しておられる御教えを、教えによって頂くという事。それが、そんなら間違いなく伝えられる。間違いなくその、まあ、言うなら御教えの深さ広さを頂く。
しかも、毎日のこの朝の御理解というのは、今日は何十節じゃったから、例えて言うと、今日は御理解5節ですかね。これは5節でしょ。御理解5節。ね。だから、明日は6節といったような訳じゃないのです。もう、その日その日、神乍にどこを頂くか分からん。そこんところを、皆さんやはり神乍だなというものを、先ず知らなければならないし。そして、私が神様から、言うならば頂いた事を元にして、それに私の体験を交えて聞いて頂くのですから。
言うならば、ね、神が物を言うて聞かすと仰せられると同じ事ではないでしょうか。ね、いかに神が物を言うて下さってもです。なら、それを聞いて帰っただけでは、だからおかげにならん。ね。それを、いよいよ実験実証させてもらう。金光大神の教えた事を違わぬように人に伝えて行くのが神へのお礼ぞと。まあ、昨日の御理解でしたね。なかなか持って、金光大神の教えておられる事を違わぬようにという事は、なかなか難しいけれども。
合楽で教えられる一言でも、それを行じて行かれたら、金光大神の言う事を違わぬように、今日は守らせて頂いたという事になるのじゃないでしょうか。ね。ここでは、皆さんが色々神様からお知らせを頂かれる。昨日、福岡の高橋さんがお届けをされるのに。こちらの修行しておる先生の中に、今村和子という先生がおります。今村和子先生が、高橋さん貴方の事ばお知らせ頂いたと。どういう事だったでしょうか。
ちょうど、こう、あの、鳥のね、剥製のがありましょうが、色んな鳥のね。あれのお鷲。鷲の剥製をこう見ておられて。それを高橋さんがこうやって、あの、まあ、扱うておられたら、それがいつの間にか生きた鷲になったというお知らせであった。どんな事でしょうかって聞かれるけど私が、それはアンタが気にする事っじゃないと言うて、まあ、申しました事でしたけれどもです。やっぱ、誰でも頂かなきゃならない事で、昨日は研修の時にその事を、まあ、話した事です。
これは和子先生、本当言うたら、アンタが頂いた御理解だよと。アンタが頂いとるとじゃから。だから、高橋さんという名を使ってあるという事は、高橋という事は、この(御結界?)、しかも高度なお取次ぎを頂いておるという事。定利というのは、定もった利と書いてある。ね、合楽で言われる、例えば、んなら、金光大神の一言でも、天地金乃神からのその、御教えを一言でも本気で行じて行く、言われるなら、まっ、成り行きをいよいよ大切に尊ぶとか。ね、土の心で言うならこれを頂き抜いて行くとかといったようにです。
もう、して、そういうおかげを頂けば、どういう答えが。もう、定まった利というか。定まったおかげというものはです、もう絶対お徳が受けられると合楽では説くのですからね。他の事はいらん、それに徹する事なんだもん。あんたはお道の教師として劣り立てを頂いて、まあ、合楽でも、まあ、何と申しましょうか。合楽での、まあ、その存在は確かに大きいです。(かって?)な方なんか、なかなかさばきますからね。大きい存在です。
それがね、もう自分には我情はない、我欲はないと思うておった、剥製のように思うておったのが、いつの間にか生きだして来とりはせんかと。鷲という事は、私は我の事だと思う。と言うて、だから高橋さんが頂くのじゃない、今村和子自身が頂かなければならない事だよと。いや、もうこれは、もう何日も前でした。何日前だって、今頂いてる事は同じ事という訳でありました。ね。
というて、んなら、これは、んなら、高橋さんはいらん事かと言うと、高橋さんもやっぱいる事だし、んなら、皆一人ひとりもそれが、もう自分には我がない、信心させて頂いとるからおかげ頂いてと思うておっても、その、それがいつの間にか生き生きと、言うなら、生き生きと我が、ね、信心するからの我というのがあります、昔から御所根性ちゅうのがあります。ね。
というような事で、言うのはどういう事でしょう。今日の御理解で言うと、神が物、もうそれこそ直に物を言うて聞かせて下さってあるのですから。はあ、ほんにそうだ。そう言われて見ると、自分はこの頃、いわゆる鷲我がだいぶん出て来とんなあと、もし感じたら、そこを改まって行くという事が、金光大神の話を聞いて助かって行く手立てである。定まった利という、もう絶対この生き方で行きゃあ徳が受けられる、おかげが受けられるという意味が、高橋定利という事だよという訳でございましたが。
お互いでもそうです。日々この御理解を頂いて、はあ、そうだと。はあ、あれは誰さんが頂きござるとじゃなくて、私一人が頂いておるという頂き方にならなければ駄目だということ。ね。私、昨日の朝、朝方のお夢に。ええ、私と、もう合楽の御信者さん方が十人ぐらいだったでしょうか、うどん屋に行っとる。うどん、そばを売ってる所を、の店でうどんを食べようという事です。それが、えっと、皆がその私の、まっ、知った方達の顔を覚えとりましたけども、ハッキリしておるのは、久留米の佐田京三さんでした。
うどんを食べよんなさいます。そして、私のところへ持ってきたのは、あの、そばだった。もう、盛りの良いそばで、しかも上に化薬がいっぱいかかっておった。ちくわ、かまぼこなんかいっぱい入っておるそばであった。そしたら、前の方で頂いておられた京三さんが、いやあ、私もそばの方が良かったち言いなさったから。そんなら私がと替えてあげようと言うて、そばとうどんを替えてあげた。ところがもう、すでにうどんは半分ばっかり食べちゃったというようなお夢であった。
これは、私は昨日、研修の時にあなた方ならどう頂くかと。皆さんならどうでしょう、どう頂かれる。これも、今言いよる、佐田京三というそれを、が出て来るけれども、佐田京三さんだけの事ではないのです。ね。ここで、そばのお知らせは、おかげが側とこう言う。私の場合はいつも、おかげが側である。ね、そして頂いた。頂いたら、もう次のおかげを側に頂こうと、いつもそばばっかりを頂いておる。
うどんという事は、どういう事かと言うと、例えば、んなら合楽の信奉者の中でも、それこそ合楽理念の実験実証を過程として、焦点として。ね、人間関係の上にも、お商売の上にも、とくに佐田さんなんか健康の上にも合楽理念に基づくところの助かりを得ておられるのである。皆が本当に羨ましがるほどしに、素晴らしい、素晴らしいとこう皆が言う。まあ、私も素晴らしいと思う。
けれども、神様の目からご覧になると、まあだ、代用食的なおかげでしかないという事である。本当のままになるという事は、私どもは言うならば、米の、ね、真っ白いご飯に。ね、それこそ化薬じゃないけれども、それにお吸い物もありゃ、お寿司もついとるといったような事で、ままになるおかげを頂かなきゃならない。まあ、そのちょっとした見本が、私の事じゃないだろうかと、こう思う。ね。
一切の上に、おかげを頂いておる。合楽理念に基づけばこういうおかげが受けられるんだという、まあ、言うならば手本を皆さんに示させて頂きながら、皆さんにも同じおかげを頂いてもらいたい。いつまでも代用食であってはならない。ね。本当にままになるおかげ。神様が下さろうとするおかげは、言うなら代用食的なおかげだけではない。その、皆さんどうぞ、銘々そのところを思うて見てください。
おかげ頂いて、おかげ頂いてと言いよるけれども、神様の目からご覧になれば、まあだ、おうどんで、おかげ頂いとるという程度の事じゃないだろうか。ね。ですから、私が、そんなら佐田さん、替えてあげようと言うて、そばとうどんを替えてあげた。しかも、もう半分な食べとるとじゃけれども、私がそれを替えてあげたというところにね、神の願いというものを、皆さんが感じなければいけないと思う。より本当なおかげを下さろうとする働きが、いつもあっておるんです。
おかげを頂いたけれども、ね、もっと、もっと素晴らしいおかげを下さろうとしておるのですから。ね。本当のおかげは、もう側にあるのだぞ。だから、そのおかげが側にあるという、その、そばのおかげを頂くところの為には、超えるところを超えなければ出けん。ね。でんべん、だらりとした同じような信心しとりゃ、いつまでん、うどん食べとかんなん。超えられないところを超える、節を乗り越える。
はあ、これではいけんと思うところを改まって、次の信心に飛躍する。初めて、そこにおかげがある。もう、そこのおかげが側に来てるんだと。しかもこれはです、頂いたおかげは、私はいつの場合でもそばを食べておるというのは。しかも、その化薬入りというところに色んな意味がある訳ですね。ですから、合楽の場合は、言うなら日勝り、月勝り、年勝りにおかげを受けておるという意味なんです。為には、いつもおかげが側であるという、そのおかげを、これで良いとは思わん。
ね、もう一段高い、言うなら次点、示現にこちら進みたいという願いと同時に、もう一段、広い大きなおかげを頂きたいと、こう願っておる。だから、そこんところを大事にして、そこを乗り越え、乗り越えして行くところにです。ね。神様が願うておられる、ね、代用食的おかげじゃなくて、本当にままになるおかげというのが頂けれるのでございます。というようにね、合楽では、なら、今日二つの例を申して話しましたが、これは、なら佐田さんだけの事ではない、今村和子先生だけの事ではない。
それをね、神の声として、お互い一人ひとりがその事を頂いて、ね、日々の信心心行の中に頂いて行くという事がとりもなおさず、ね、神の御返事を頂いて帰ったという事になるのじゃないでしょうか。ね。片便の願い捨てではない。合楽の場合は必ずそれに、言うならばお土産というか。ね、御返事を頂く事が出来る。だから、頂いただけではね、そこに本気で、言うなら、ね、代用食から本当のおかげを頂かせてもらおう、よりもっと、大きなという事にもなりましょう。
もっと深い、広いという事にもなりましょう。ね。そこを頂く為の精進がいるという事を思います。昨日、佐田先生のあの、叔父様ですかね、の話をさせて頂いたんですけれども。とにかく、あの、毎月おかげの泉を送ると、それをすぐ、こう読んで、それをテープに入れられる。そして、それを、もう繰り返し、繰り返し頂かれるというように、合楽に傾倒しておられた方でありますが。
今度のその、告別式に佐田先生が参りまして、あの、色々まあ、合楽的不思議を感じ、合楽的おかげを、まあ、あっちこっちに頂いて帰ったんですけれども。ここに今、あの、秦先生という先生が四国から修行に来とりますが、こちらに修行に来る時にが、まあ、そうであった。ちょうど合楽から頂いておる新聞をちょっとこう開いて見たところが、石川のおばあちゃんの記事が載っていた。
その石川のおばあちゃんが言うておられる事の中に、合楽の親先生は世界一というような意味の事が書いてあった。ちょっとこう、車窓を見たところが、そこに傘の下に大黒様が入っておられるという看板が出ておった。その看板に何ち書いてあった?え?ワールド?ワールドエース大黒?はあ、大黒様っちゃあ合楽の親先生のこと。もう、本当に世界一だという風に、まあ、頂いたという話を聞いてましたのが、それをちょうど佐田先生も行きか戻りか知らんが、そのまあ、見せて頂いたというお届けを昨日しておりました。
私が世界一とか、日本一とかという事じゃ決してありませんけれども。ね、皆さんが家の親先生は世界一と思う事なら、どげん思うても良い訳でしょうもん。ね。というほどしに、おかげは頂かれるとですよ。ね。家の親先生は世界一だ。その、思う。それほどに思う、頂く、その言うならば傾倒するという事がね、おかげを頂く事。私は、いつもここの御理解を頂く時に、この方が祈るところ、天地金乃神と一心、というところがありますね。
ね、この方が祈るところは、天地金乃神と一心なりとある。これは、私は教祖金光大神だけの専売特許じゃないと思う。ね、先日から頂くように、ね、天地の中に人間が入って行けれる。いわゆる、天地人、(一人?)の世界。そこに私どもの心の状態が入って行く時にです。もう、天地金乃神と一心なりという事になるのじゃないでしょうか。ね、そういう、言うなら人のお話を皆さんは毎日頂いておるという事になるのです。
ね、ですから、それを頂き逃す事も出けんが、それをまた、無駄にするという事も、いよいよ、私は神様のお言葉を無にするという事は、こんなにお粗末御無礼な事はないと思う。それを頂いて、しかも難しい事は一つも言うてはない。ね。昨日も、石田先生が毎朝ああして参って見えて、お届けがあっておりましたが。もう、朝から晩まで親先生の事ばっかりを思うて、もう朝の3時になったら、さあ、起きらにゃと言うて、まあ、先生が言われるとこう言う。
もう、とにかくお話を頂く事の有り難さ。それを行じる事の喜びというものをです、毎日感じておられるという事なんです。ね、そういう生き方で行きゃあ、もう高橋定利です。もう絶対お徳が受けられるです。ね。そういう、お互い頂き方をね、さらにして行かなければならない。ね。どこへ参っても、片便の願い捨て。私は、これは、んなら金光様の御信心というか、お教会というのが沢山あります。ありますけれども、本当に、ね、神が物を言うて聞かすという所が他にあるだろうか。
そういう意味でなら、確かに世界一かも知れんと私は思います。ね、そういう、言うならばお教会に縁を頂いたという事をね、私は有り難いと思うて。その御理解が、ね、佐田さんじゃない、高橋さんじゃない、今村和子先生じゃない。銘々が頂いたとして。
ここに繋がっておる皆が頂いたとしてです。ね、その事を今日一日の信心の内容とし、支えとして行くおかげを頂いたら、ね。 言うならば、それを守って行く、行じて行く。それこそ石田先生じゃないけども、もう有り難うして有り難うしてという心の状態が開けて来ると思うですね。どうぞ。